朝鮮音楽の研究

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の音楽・軍歌・歌謡を翻訳。現在300曲収録を目指しています。開設:チュチェ104(2015)年4月23日 ※2016/8/22 コメント欄開放 姉妹サイト:http://www.geocities.jp/totalwar1939/

【キム・グァンスク同志追悼】若い機関士(젊은 기관사)

www.yonhapnews.co.kr

聯合ニュース(韓国版)によると朝鮮中央通信は15日、平壌学生少年宮殿声楽指導教員で、かつての普天堡電子楽団歌手である人民俳優キム・グァンスク(김광숙)同志が逝去し、金正恩同志が追悼の花輪を送ったと報じた。

キム・グァンスクは普天堡電子楽団の最初期から在籍し、他の歌手たちとともにその黄金期を築きあげた歌手であった。

そこで、彼女が朝鮮音楽界に残した大きな足跡を称え、1966年の歌謡を彼女がカバーした『若い機関士』(映画「鉄路の上で、철길 우에서」劇中曲)を訳してみたい。

 

若い機関士  1966年創作 作詞:변병순 作曲:리학범

 

朝焼け照らす 線路の上に 若い機関士
汽笛を鳴らし 汽車を走らせた
砲煙をかき分けてきた 勇敢なその若者
厳しいその日にも 汽車を走らせた

愛する故郷の地を想いながら
変わらず戦ってきた若い機関士
倒れた戦友の恨みを晴らさんと
熱き胸中に 誓い固めた

ああ

血に染まった 千里の道を行こうとも
首領様への誓いを 守りたたかわん


노을비낀 철길우에 젊은 기관사
기적소리 울리며 기차를 몰았네
포연을 헤쳐온 용감한 그 젊은이
준엄한 그날에도 기차를 몰았네

사랑하는 고향땅을 그리어보며
변함없이 싸워온 젊은 기관사
쓰러진 전우의 원한을 씻으려
뜨거운 가슴속에 맨세를 다졌네

아-...

피어린 천리길 만리를 간다해도
수령님께 다진 맹세 지키여 싸우리

 

動画

 

キム・グァンスク女史、安らかに。

 

我らは勝利者(우린 승리자)

チェ・ロサ作詞、キム・ウォニル作曲の『我らは勝利者』。

 

 ・歌詞

いまだ国が 若かったころでも
我らが信じたのは 党と首領だけ
砲煙千里 血をもって 潜り抜け
米帝を撃ち破った 我らは勝利者
我らは勝利者

 

世代を継いで 敵と臨み
今日も信じるのは 党と首領だけ
英雄朝鮮の気概で 尊厳とどろかす
社会主義を守り立つ 我らは勝利者 
我らは勝利者

 

険しき前途に 試練多くとも
より固く信じるのは 党と首領だけ
一心団結の この力で戦い抜き
屈服を知らない 我らは勝利者
我らは勝利者

 

아직은 나라가 청소했어도
우리가 믿은것은 당과 수령뿐
포연천리 피로써 헤쳐넘으며
미제를 무리친 우린 승리자
우린 승리자

 

세대를 이어서 원쑤와 맞서
오늘도 믿는것은 당과 수령뿐
영웅조선 기상으로 존엄 떨치며
사회주의 지켜선 우린 승리자
우린 승리자

 

험난한 앞길에 시련많아도
더 굳게 믿는것은 당과 수령뿐
일심단결 이 힘으로 맞받아가며
굽힐줄 모르는 우린 승리자
우린 승리자

 

・解説

1993年創作の『我らは勝利者』。

作詞者のチェ・ロサ(최로사、1932・6・15~2011・3・11)は金日成桂冠詩人で、女性でありながら祖国解放戦争(朝鮮戦争)に従軍して様々な詩をつくり、戦時歌謡『泉のほとりで』の作詞も務めたことで有名ですね。後年には「血の海」歌劇団革命歌劇「血の海」の公演に特化した劇団)の専属作詞家となったそうです。

作曲者のキム・ウォニル(김원일)は普天堡電子楽団シンセサイザー奏者ですが、作曲を手掛けることもあったようです。もっとも普天堡ではリ・ジョンオが作曲家と指揮者を兼任していたのを代表例として、様々な技能を兼備する才人が多いので不思議なことではないのでしょう。

歌は往年のリ・ブンヒ(리분희、1972~)。

動画は一つ目がリ・ブンヒによる独唱ですが、二つ目は牡丹峰楽団歌手リュ・ジナによる独唱です。前者の繊細な歌唱に比べて後者は重厚さを重視しているように思えますが、どちらのアレンジであっても引き立つようなメロディーを形成することに成功しています。

対米対決が激化していた1993年当時にリ・ブンヒの透徹した歌声はどこか悲壮な覚悟を感じさせるものでしたが、それに劣らないほど朝米関係が悪化している現在、牡丹峰楽団歌手リュ・ジナによる重々しい歌唱も、米帝の強圧に屈しないという堅い信念が伺え、どちらにも良さがあると思います。

とりわけ実際に戦火を潜り抜けて詩を書き続けたチェ・ロサにとって、ひとたび戦争となれば、詩人にとっての銃である筆を手に取り再び戦場へと戻っていく覚悟を持っていたでしょうし、だからこそいかなる状況であっても「党と首領」だけを信じる、と書き綴ったのでしょう。我々もこんな強い信念を持ちたいものです。

 

・動画

 


 

2015/08/01 記事公開

2018/01/01    記事改訂

思郷歌(사향가)

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金日成主席が創作した「不朽の古典的名作」とされる・・・が、詳細は後述。

 

歌詞

 

我がふるさとを 離れる朝に わが母が
門前で涙し 「立派にお行き」と
言われたその言葉が ああ 耳に響く

 

家から少し 遠くに行くと
小さな小川がさらさら 幼い弟たちと
遊んだその光景 ああ 目に浮かぶ
夢にも忘れられぬ 我が故郷よ

 

大同江の流れ 美しき万景台の春
夢にも忘れられぬ懐かしき山河
光復のその日に ああ 戻ってこよう



내 고향을 떠나올 때 나의 어머니
문앞에서 눈물 흘리며 잘 다녀오라
하시던 말씀 아 귀에 쟁쟁해

우리 집에서 멀지 않게 조금 나가면
작은 시내 돌돌 흐르고 어린 동생들
뛰노는 모양 아 눈에 삼삼해
꿈결에도 잊지못할 내 고향이여

대동강물 아름다운 만경대의 봄
꿈결에도 잊을수 없네 그리운 산천
광복의 그날 아 돌아 가리라

 

解説
『思郷歌』は朝鮮民主主義人民共和国では、金日成主席が創作した歌に冠せられる「不朽の古典的名作」という称号を持つ歌謡のなかでも最も格調高い曲として知られている。
例えば共和国が運営しているサイトのひとつ「朝鮮の今日」サイト内(

http://www.dprktoday.com/index.php?type=92&g=1&no=237)

では次のように解説されている。

「偉大な首領金日成同志が栄光ある抗日革命闘争の時期に創作なさり普及した不朽の古典的名作である。
歌は偉大な首領様が提示された主体的な革命路線、抗日武装闘争路線を心に奉じ、手に銃を持ち飛び出した抗日革命闘士たちの崇高な社会主義愛国主義の思想と、夢にも見て忘れられない祖国の山河と父母兄弟、特に偉大な首領様が子ども時代を過ごされた由緒ある万景台の切なる恋しさと祖国解放の燃える念願が感銘深く反映されている。」・・・

じっさい、朝鮮の様々なメディアにおいて『思郷歌』は放映されている。たとえば「チョソンの声」放送内での金日成回顧録「世紀とともに」朗読でも流される。
この曲がなぜ重要視されるのか。
それは、朝鮮民主主義人民共和国歴史観において極めて重要なパートを占める、金日成とその指揮部隊が祖国を解放したという「抗日パルチザン神話」を彩る曲だからである。
抗日パルチザン神話」はまさに国家体制の存在基盤の根幹を形成するものであり、抗日武装闘争の途にある金日成主席が故郷の万景台を懐古する内容の『思郷歌』は、それを裏打ちするという意味で欠かせない。
さて、先に述べたように『思郷歌』は金日成主席が自ら創作した、とされている。
しかし、これは事実ではない。
南朝鮮大韓民国)の研究者の間での定説は、『思郷歌』は大韓帝国軍楽隊長なども務めたフルート奏者、鄭士仁(1881~1958)という音楽家が作曲した曲である『내 고향을 이별하고(わが故郷を離れて)』という曲がもとになっている(作詞者は不明)という。実際に旋律はもちろん、歌詞の内容も酷似していることから、これは正しい説だといわざるをえない。
ではなぜ共和国国内では「金日成主席が創作した」といわれているのか。
様々な推測が可能なのだが、共和国当局の故意のねつ造というより、自然な形で事実がすり替わってしまったとするほうが蓋然性が高く、次のようなシナリオが真実に近いと思われる。
金日成主席がパルチザン時代、故郷を想いながら実際に『我が故郷を離れて』を愛唱し、パルチザン部隊のなかにも普及したものが解放後も伝えられたが、金日成主席が「人間」から絶対的な権威をもつ「首領」へとスライドする過程で、いつの間にかその出自が失われていった・・・。

しかしどの段階で『思郷歌』と『我が故郷を離れて』が入れ替わったのかはわからないし、そもそも『思郷歌』はある時点で原曲から分離して伝えられていった可能性もあるため、本当のところは今後の研究を待つしかない。
このような経緯を持つ『思郷歌』だが、実際には金日成主席が創作したものではないとはいえ、間違いなく主席とその部隊員を鼓舞した歌であることに変わりはなく、研究が進むにつれ、その歴史的価値はいっそう高まっていくだろう。

バージョンはたくさんある。私が持っている朝鮮音楽CDを調べてみたところ、普天堡と功勲だけで3バージョンずつある。他にもいろいろあるのだろうが、今回は功勲の動画と金日成主席みずから歌っているものを貼っておく。

 

参考サイト

사향가 - 엔하위키 미러

 

動画



 

・原曲『我が故郷を離れて』



2015/04/24 記事公開

2017/12/29 記事を大幅改訂

 

※欄外コラム

日本の皇室は壬申の乱南北朝動乱で皇統が断絶しているとはよくいわれるが、

同様の例は中国にもある。というか中国が本場だ。

たとえば劉氏の漢帝国がそう。王莽の新帝国を挟んで前漢後漢と区別されるのは教科書レベルの話だが、劉邦光武帝・劉秀など血統で言っても遠縁だし、中央集権レベルの差異など、その統治システムは全く異なっているのが実情だ。

また明帝国にも同様のことがいえる。

本来の明朝の正統は南京にある洪武帝朱元璋の政府であったが、その直系の孫である二代皇帝を廃した永楽帝も血統で言えば傍流であり、その政府は北京に置かれた。

これについて、中公新書西太后』(加藤徹)では、中国は中近世にかけて常に南方政府が北方政府に征服されてきたと指摘し、中国人の北方コンプレックスを明らかにしている。

こうした屈折した感情が、北方の大清帝国に大規模な反乱を起こした太平天国と、さらにはその原始共産制の評価にもつながり、毛沢東に象徴される中国の共産主義思想の誕生に寄与したのではないか、というのが共産趣味者かつ歴オタである私の考えるところである。